私はサーファーだ。
長髪を潮風になびかせ、真っ黒に日焼けした肌を太陽に晒し、サーフボードを抱えて焼けた砂の上を歩く。
ビーチサイドでは昼寝から覚めた女が(昨日出会った女だ。彼女は大女優のように大きなサングラスをかけていた)、大声で私の名を呼んでいる。
どうやらサンオイルを塗ってやる約束を忘れたらしい。
私は振り返りもせず、ただぞんざいに右手を振っただけで沖へと向かった。
十年前、私の全てだったあの波に、今日こそ再会できそうな気がするのだ。
………。
そんな事はない。
そもそも今は真冬だし、私はサーファーではない。
では、なんでこんな書き出しになったのか。
それは、あの言葉のせいだ。
「ネットサーフィン」
私はこの言葉が好きだ。
今や誰も口にしなくなった言葉だが、もっと皆で使って欲しいと思っている。
インターネットという大海原を、クリックひとつでスイスイと自在に滑走する…。その感覚はまさにサーフィンそのものだ。(本当のサーフィンはやったことが無いが)
最初にこの言葉を作った人は偉いと思う。
しかし、そこには落とし穴があった。
「昨日ネットサーフィンしてたらさぁ…」
なんだ、この言葉を口にする時のなんとも言えない気恥ずかしさは…。
インターネットの普及率が上がってほとんどの人がネットサーフィンを楽しむようになったにもかかわらず、この言葉が急速に廃れていった原因は、それを口にする際の気恥ずかしさにあったのだ。
では、この気恥ずかしさはどこから来るのか…?
その答えは冒頭の文章の中にある。
皆さんはあれを読んで何か感じなかっただろうか?
そう。
「ネットサーフィン」が恥ずかしいのではない。
恥ずかしいのは、「サーフィン」だ。
あけましておめでとうございます。
皆さんは年末年始、どんな風に過ごしましたか?
モチはいくつ入れましたか?
私はダラダラとテレビを見て、たいていモチを2つ入れました。
モチは不思議です。
なぜ焼くとふくらむのでしょうか。
しかも、1つ1つ違うふくらみ方をします。どれをとっても1つとして同じふくらみ方をしていません。
世界にひとつだけのモチです。
SMAPの曲がそういうタイトルだったら、いくら同じ内容でもあれほどヒットはしなかったでしょう。
言葉というのは不思議です。
それでは、今年もNの方向をよろしくお願い致します。
向田も2008年は、モチのように粘り強く、いい感じに膨らんだり、老人の喉にまとわりついたりしていこうと思います。
神田山陽さんの独演会を拝見してきました。
紀伊国屋ホール。
演出は我らがふじきさんです。
山陽さんはGEESEの事務所の先輩にあたる講談師の方で、講談師の方でありますから当然、講談の独演会だったわけです。
講談。
我々のようなギャル男には馴染みの薄い世界です。
すいません。今気づいたのですが、私はギャル男ではなかったです。
しかし、馴染みが薄いことに代わりはありません。
かく言う私も講談を観るのは今回が3度目。独演会となると初めてです。皆さんの中にも、観たことないよという人がいるのではないでしょうか?
現在の日本では講談を観なくても逮捕されることはありませんが、観た方がいいです。
観たら逮捕されるとしても観た方がいいかもしれません。
講談は決して古臭い古典芸能などではなく、現在も脈々と生きております。
なにしろ、今回のお話などこれです。
江戸時代の町人が未来の時空研究者によってサイボーグ(からくり人形?)に改造され、滅亡に瀕している地球の未来を救うべく過去の歴史的事件の現場にタイムスリップして歴史を改変する…。
まるで映画です。
映画にして主演をマイケル・J・フォックスにして3部作にしたいくらいです。
ですが、山陽さんはそうしませんでした。
おそらくマイケル・J・フォックスに断られたのでしょう。
いや、違います。
映画よりも講談の方が面白くなるからです。
講談は観る人の想像力をかきたてる芸です。
映画や演劇と違い、観客が好きなようにイメージした映像を脳内で再生することのできる装置なのです。
それでいて、講談師が演技によってこちらのイメージの世界に介入してくることもあり、小説では味わえない変幻自在の面白さがあります。
講談はなんとも素敵なジャンルです。思わず嫉妬してしまいます。
コントか。講談か。
当日、客席にひときわよく笑う女性がいました。
他の人が笑っていない場面でもひとりでケタケタ笑っていました。
きっと、他のお客さんよりイマジネーションが豊かだったんだと思います。
彼女の脳内ではどんな映像が流れていたのか…。
非常に観てみたい。
DVDに焼いてもらいたい。
コントよりも講談よりも、結局一番面白いのは人間の脳味噌だなと感じた、クリスマスの夜でございました。
今年の漢字は「偽」だそうだ。
この時期になると毎年ニュースで取り上げる、どこかの偉いお坊さんがでっかい筆で書く、アレである。
2007年、一言で言い表すと、「偽」。
食品偽装やら年金やら夏川純やら、色々あって「偽」。
「偽2007年」
こう書くと、今年は「偽2007年」で来年が「本当の2007年」なのかという気分になるが、来年は「2008年(本物かどうかはわからない)」だ。
だが、「ニセ」という概念はどことなく我々を引き付ける。
子供向けのマンガや特撮モノにはよく、「ニセ(仮面)ライダー」や「ニセウルトラマン」といった敵が出てきていたが、私は彼らが好きだった。
そこにあるのは、「いかがわしさ」と「哀愁」だ。
彼らニセ物マン(ニセ○○マンという事ッス)は、明らかに本物マンに対して引け目を感じているように見えたし、必ずオリジナルを超える事ができずに敗れ去って行った。
そして、画面いっぱいに哀愁が漂った。
そういえば、彼らは多くの場合、ニセ物である事がバレバレのルックスをしていた(色が違うとか、目が吊り上がっているとか)。
「㈱比内鶏」も、社名が「㈱ニセ比内鶏」で、パッケージに「ニセ比内鶏!」と表記して廃鶏を売っていれば、あのような罪には問われなかっただろう。
誰も買わないだろうけど。
2008年が皆さんにとって、本物の良い年である事を祈ります。
と、石田衣良のエッセイのように無難に締めてみました。ニセ石田衣良です。
皆さんは、山でクマに出会ったらどうしますか?
私は死んだフリをします。
こんにちは。向田です。
ええ。その説に科学的根拠が無いという話は知っています。しかし、演劇にたずさわる者として、やはり死んだフリを支持したいのです。
おそらく、科学者たちは実際にクマの前で死んだフリをしてその効果を検証したのでしょう。そして、全く効果が無いという結論に達した。
しかし、こうは考えられないでしょうか?
演技力の不足。
おそらく、この実験で死んだフリをしたのは一般の学生か演技に関しては素人の研究者でしょう。想像するに、その死んだフリはクマも失笑するようなお粗末なものだった筈です。
これでは、死んだフリに効果が無いということにはなりません。
死んだフリをしたのが渡辺謙だったら…。
今や日本を代表する俳優である渡辺謙。しかも、かつて大病で本当に死の淵に立った経験を持つ渡辺謙です。
間違いなくクマはその場を立ち去るでしょう。
それどころか、クマが泣いてしまう可能性もあります。
ロバート・デ・二ーロならどうか。
全く問題ありません。
死んだフリでも神経症のマフィアのボスでも、どんな役でも自分のものにするのがデ・二ーロです。
クマもスタンディングオベーションでしょう。
では、我らが春山優ならどうか…。
…技術面では木彫りの人形に毛が生えた程度ですが、彼にはなんとも言えない味(木彫り特有の)があります。
クマがその味を理解してくれれば、きっと助かると思います。
ともあれ、みなさんも森でクマに会った場合は、クマを蜷川幸雄先生だと思って死ぬ気で死んだフリをしてください。